TOP>ことでん>畑田変電所
■概要
 大正15年、琴平電鉄(現高松琴平電気鉄道琴平線)の開業と同時に、同線への電力供給を目的に「畑田変電所」は開所した。交流で流れてくる電気を電車用に直流に変えるのが変電所の役目。開業当時は最新鋭のドイツ製変電器を備えていたようだ。大正、昭和と太平洋戦争をも乗り越え稼動し、昭和55年、滝宮に変電所が完成したとともに変電所としての人生の幕を下ろした。
 コンクリートによって建造された畑田変電所は平成を迎えた今なお、取り壊されず畑田駅の片隅にその姿を構えている。老朽化ゆえに外壁の剥離や内部の崩壊がすすむ、畑田変電所の"今"を探った。

■位置

香川県綾川町畑田

高松琴平電気鉄道畑田駅の横

 香川県のほぼ中央に位置する綾川町とは今年、平成の大合併のひとつとして、綾南町と綾上町が合併してできた新しい町だ。畑田変電所は旧綾南町のエリアにはいる。
 なぜ畑田駅に変電所がおかれたかというと、やはり地理的要因が大きいと思われる。高松築港―琴電琴平の琴平線の丁度真ん中となっているのだ。この駅の周辺は畑などが多く広がる地域で容易に土地が確保できたのも理由のひとつかもしれない。


■実況
 では、写真と文章を交えながら畑田変電所の"今"をお伝えしようと思う。

 私は高松市内から自転車で畑田駅までやってきた。この辺り、陶信号所など、鉄道関連の遺構が少し充実している。駅から遠い鉄道遺構への訪問は自転車が便利である。天気は晴れ。この季節の晴れはとても気持ちがいい、なんとも廃墟日和。
 畑田駅は無人駅。駅舎もない簡易な駅である。屋根付きホームには、ゴミ箱・イルカ簡易改札・時刻表など必要最低限の設備が備えられているだけ。交換施設は以前はあったものの現在はホームがのこるのみだ。





 これはホームからの風景。写真の奥の方には新しい家も立ち並んでいるが、のどかな農村地帯。畑田とは読んで字の如く畑と田が多い。春の陽気もあって、ゆっくりと時がすぎているように感じた。
 といってもこれはこの近辺の駅すべてにおいていえることである。琴平線を乗っていると一宮を過ぎた頃には高松近郊地帯を抜け、このような車窓が続く。このまま琴平まで至る。大変のんびりとした列車の旅が味わえること間違いなし。


 これが
 畑 田 変 電 所

 とりあえず詳しい場所を説明しよう。畑田駅をおりた正面に旧畑田変電所は存在する。方角でいうと、畑田駅を基準に北側の西にある。畑田駅の自転車置き場横を進むと小道があり数十メートルでその小道の左手にそれはある。
 一応簡単な地図(下図参照)を用意した。




 畑田駅前の住宅街の中、住宅と住宅とに挟まれた小道沿いに畑田変電所はあった。ただならぬ佇まいは大正時代の完成時のまま。大正浪漫の風潮のもと立てられた畑田変電所は立派で、重厚感のある建物だ。今年みるような機械だけの変電所とはわけが違う。この立派な建物に最新鋭の変電設備を供えた畑田変電所は、車両とともに当時の琴平電鉄が誇れるものだったそうだ。
 ただ、経年による風化、そして変電所を廃止されてから整備はしていないだろうことでコンクリートの外壁はいたるところで剥がれ落ち、ガラスは割れ、完全な廃墟となっている。危険な状態だ。それ故、まわりの風景には馴染んでいない。異様な存在なのだ。建物は、まわりにはロープが張られ立ち入りが禁止されている。

 建物全体はツタに覆われている。夏になると緑一面になるのだろう。この畑田変電所の特徴のひとつに"左右対称"にできていることがあげられる。建物のそのものの形状とか窓の形状とかがドア付近を中央として左右に同じように作られているのだ。
 ただ左右対称というだけでなくデザイン面も配慮されている。例えばこのドアの上の部分の□4つ。これは完全に建物装飾用であり、なかなかお洒落につくられたというわけだ。


 他にも特徴的なことがある。この写真ではわかりづらいので一度一番上の写真を見て欲しい。ツタに絡まれてこれでも見難いかもしれないが、赤い斑点のようなものがおわかりいただけるだろうか。この建物の建築年数を考えればこの赤い斑点の正体を想像することは容易だろう。大正時代の完成の建物で、昭和時代の第二次世界大戦を乗り越えた建物だ。そう、これは迷彩塗装である。戦中は、農村地帯とはいえ鉄道を支える変電所は空襲の対象だろう。そのことから敵機へのカモフラージュを目的に迷彩塗装が行われたのだ。実際問題、緑多い地域で赤色の迷彩模様が効果を発揮できたのかは不明だ。ツタで覆っておけば効果が期待できそうな感じ。


 変電所の敷地内はとにかくガラクタで埋め尽くされていた。どこかで使われていただろう碍子が大量に放置されている。建物自体には小道から数メートルと至近距離にある。立ち入り禁止とあって後ろめたさがあったか少しだけ建物に近づいた。そして、割れたドアの窓から見えた風景がこの写真である。

 変電所にはドイツのシーメンス社製の1500ボルト水銀整流器を全国で最初に用いたそうだ。建設工事には外国人技師・バーマー氏が立ち会ったらしい。中の変電器は当時のものなのかは私にはわからない。碍子は古そうだ。奥の黒の連結器のホロをのばしたようなものはなんだろうか。柱は黒と黄色の警戒色にぬられている。
 この建物の入り口は少し開いていた。錆びきった扉も押せば開いたかもしれない。ただ、ここは住宅街。人の目も気になるし、上に取り付けてあるものが崩落しそうな危険もあったので内部へ侵入は断念。

 これは逆側からの風景だ。旧国道32号線より撮影した。あたりは畑。変電所横の住宅街がなかった当時はかなり目立った建物だったに違いない。当時の話によると、白色のコンクリートのしゃれた洋風建築は意外にも田園風景にマッチしていたそうだ。



 なんだかこの角度からみると、今でもなかなかお洒落な建物にみえるんではないだろうか。どこぞの高級住宅地の邸宅の雰囲気すら醸し出してるじゃないか。今は枯れているツタも、夏などには緑いっぱいになる。各所から見れる畑田変電所の風景も変化するのだろう。

 畑田変電所に裏手には大きな松の木が聳えている。おそらく大正時代に建物の完成とともに植えられたものだろう。その松の下には木造の小屋があるをおわかりいただけるだろうか。変電所の施設か、もしくは変電所職員の宿舎などに利用されたのかもしれない。地面には枯れた草が生えている。さらに、建物にくっついた変電所の設備が屋外にある。僅かながら碍子も見られる。
 それと最後に屋上に注目してほしい。ここにも松らしきものが育っている。どこからか飛んできた胞子がここにおちたのだ。もしくは今日日流行している屋上緑化を先取りしていたのかもしれない。。

■参考資料
 ここで衝撃的な写真を一枚見ていただきたい。右の画像である。写真を見れば一発でわかること、なんとこの変電所には3階があったのだ。木造の三階部分がコンクリートの建物に乗っている。ここに変電所の操作室があったのかもしれない。それにしても驚いた。ただでさえ立派だと感じていたのに、さらに上があったとは。

 香川県広報誌 『THEかがわ』
 これは今回この記事を作るにあたって参考にしたものだ。香川県の広報誌は確か今年の広報誌の完成度を競う大会で全国3位をとったものだ。内容も面白いものがある。その一つに「あれ なんな?」といって香川の不思議なものを探すレポートに畑田変電所が記載されていた。
 右の写真は高松琴平電気鉄道発行の『60年のあゆみ』より引用させていただいた。

■最後に
 老朽化ゆえ危険な廃墟である畑田変電所。駅前と人に接しやすい立地上、撤去の噂があるらしい。実際問題、ことでんでもこの件について問題になってるそうだ。ただ、保存運動も同時に起きているのでそちらに期待したい。大正建築に戦争の傷と歴史を多く語る畑田変電所は是非保存すべきだと私は思う。



最終更新日2005/4/30 訪問日2005/4/28

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